メタセコイア(和名アケボノスギ) 100万年前に絶滅したと思われていたが、1946年中国(湖北省)で発見され、生きている化石と呼ばれている。

この樹について

メタセコイア(和名アケボノスギ)

100万年前に絶滅したと思われていたが、1946年中国(湖北省)で発見され、生きている化石と呼ばれている。1949年その苗木が皇室や日本政府に贈られ、そこから日本各地に広がっていった。常緑種に似ているのに冬になると、きれいな褐色に色づき落葉するのでメタ(超越した)セコイアと名付けられた。樹齢は1000年を超すこともある。


天に向かって真っすぐに力強く成長し長寿であることから、このビルの竣工時に会社の発展を願い二代目社長 竹鼻実氏により植樹された。


台東区の景観重要樹木や保護樹木にも指定され、浅草橋のランドマークとなっている。

このあたりは

江戸時代1861年文久元年の浅草御蔵前周辺の地図

東都浅草絵図

 このあたりは江戸幕府の米蔵(浅草御蔵)があったことから江戸のころは浅草御蔵前片町、昭和初期までは浅草蔵前と呼ばれていた。米蔵は元和6年(1620年)鳥越の丘を削りその土砂で隅田川河岸を整地しつくられた。約4万坪の敷地に67棟もの蔵が立ち、62万俵(37500トン)もの米を収納することが出来た。


全国から米や物産が集まったことで米問屋や札差をはじめ多くの店が並ぶようになり、大変な賑わいをみせた。巨利を得た札差は「蔵前風」と呼ばれる豪奢な風俗を生み出し金持ちの代名詞となった。


米蔵には船入り堀が8本あり、4番掘りと5番掘りの間に「首尾の松」が植えられていた。その風景は歌川広重の『名所江戸百景』に描かれている。また天明2年(1782年)にはこの付近に幕府の天文台もつくられ、改暦に際し天文方高橋至時らが活躍した。至時の弟子には伊能忠敬がいる。その風景は葛飾北齋の『富嶽百景』内「鳥越の不二」に登場する。


明治時代になり近代化を急ぐ政府は米蔵の跡地に浅草文庫(明治7年)や敷地約1万坪の東京職工学校(明治14年)、浅草火力発電所(明治28年)などをつくった。その後、浅草文庫の蔵書13万冊は国立公文書館などに移され、東京職工学校は充実発展し東京工業大学(現在地目黒区大岡山)になり日本を工業立国に導いた多くの人材を輩出した。また浅草火力発電所の煙突は関東大震災の後に千住火力発電所に移され「おばけ煙突」と呼ばれ親しまれた。


現在それらの跡地はここから鳥居が見える榊神社や区立浅草中学校、都立蔵前工業高等学校、蔵前警察署、東京都下水道局などに変わっている。


榊神社は景行天皇の御代に日本武尊が皇祖二柱の大御神をお祀りしたことにはじまる。大神輿は、三代将軍徳川家光公より御奉納された。境内には七福稲荷神社、事比羅神社、豊受神社、繁昌稲荷神社があり御本社とともに霊験あらたかな神社として広く尊崇されている。

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